高等部ブログ
リード通信Vol.6バックナンバー (2022年4月)
2023/03/22
こんにちは。忠節校舎で英語を担当していますが、今日は長良校舎にいる高橋です。
今日はリード通信第6回を公開します。この回から田辺先生の新コーナーがスタートして更にパワーアップしました。
情報は2022年4月現在です。ご注意ください。
忠節校限定! リード通信Vol. 6 (2022年4月号)
(なるべく)毎月1日送信。ただしいつまで続くかは??
今月からリードが誇る国語科の田辺先生(東京大卒)による新コーナーもスタートです。
新年度、更にバージョンアップしてお届けします!
1、今月の予定(省略)
2、今月のお話
リード忠節校のスタッフが持ち回りでいろいろな話をします。
今月の担当は高橋です。
先日、「やる気がでなくて、なかなか春の課題が進まない」と言う生徒がいて相談にのりました。
そこで今回のテーマは「やる気をだす方法」です。
そもそも、「やる気」というのは「意識」の1つですが、この「意識」というものについてはこれまでに様々な面白い研究がなされています。
ペンをストローのように縦に咥えて漫画を読んだグループと、ペンを横にして咥えて漫画を読んだグループではどちらの方が漫画をより面白いと感じたか分かりますか?
もちろん、どちらのグループも同じ漫画を読んでいます。
漫画の面白さを10点満点で評価してもらったところ、ペンを縦に咥えたグループが平均4.7点、ペンを横に咥えたグループは平均6.6点でした。
2点近くも差が出た理由は、「ペンを横に咥えると口が開いて顔が笑顔のようになるから」だそうです。
ここで大事な点は、ただ表情がそうなっていただけで「本当に笑っていた訳ではない」のに、これだけの差がでた、ということです。
ここで脳の立場に立って考えてみます。
彼は真っ暗闇の頭蓋骨の中にあります。
彼が直接外の世界を知ることはできません。
彼が外の世界を知る唯一の手段は身体を通して、です。
彼は身体を通して、「顔が笑っているようだ」という情報と「漫画を読んでいる」という情報を手に入れます。
この2つの情報を結びつける論理的な結論は「漫画が面白い」しかありません。
結果、ペンを横に咥えたグループは漫画をより面白いと意識したわけです。
この実験から分かることは、究極的には、意識が体をコントロールしているだけではなく、体も意識をコントロールしている、ということです。
この実験を踏まえて、やる気を出すにはどうしたらよいでしょうか?
意識を優先するのではなく、体を優先するべきです。
具体的には、行動を起こすべきです。
たとえやる気がなくても、テキストや単語帳を手に取ってみる、ペンを持つ、机に座る、遊び道具は目の届かないところに置く、自習室に来る、姿勢を正す、、、。
行動を起こすと、脳は「体がやる気になっている」と勘違いします。
そしてやる気になるのです。
「やりはじめないとやる気は出ません。
脳の側坐核が活動するとやる気が出るのですが、
側坐核は、何かをやりはじめないと活動しないので。」
(東京大学薬学部薬品作用学教室 池谷裕二教授)
3、高橋の各国つれづれ訪問記
高橋が過去に訪れた国を紹介するコーナーです。読んでも特に何の役にも立たないので読みたい人だけどうぞ(笑)。
第6回はボスニア・ヘルツェゴビナです!
首都:サラエヴォ:1914年にオーストリア皇太子夫妻が暗殺された場所。これが第一次世界大戦の引き金になったのはあまりにも有名。
最大都市:サラエヴォ(人口31万人)
面積:約51,000平方キロ(九州の約1.5倍)
人口:約330万人
一言メモ:ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(1992~1995)は、 旧ユーゴスラビアの解体に伴いボスニア・ヘルツェゴビナも独立宣言をしたものの、独立に反対していた国内のセルビア人達がボスニアからの更なる独立を目指して紛争となった。さらに当初は独立を目指して連携していたムスリム系の人々とクロアチア人も仲違いをして3つどもえの争いとなった。
私がボスニア・ヘルツェゴビナを訪れたのは紛争が終わって3年後の8月末でした。
ユーゴスラビアからの夜行バスで朝早くにサラエヴォに到着し、同日の夜行バスでクロアチアへ向けて出発したので、滞在は1日だけでしたが、その印象は強烈に自分の脳裏に刻み込まれています。
サラエボに着いたのは朝の5時半でした。
降ろされたのは全然首都とは思えないド田舎の集落でした。
(ユーゴスラビアから来るバスは街の中心からだいぶ離れたセルビア人移住区に着く、ということは後で知りました。こんなところにも民族間の紛争の名残がありました。)
夜行バスの運ちゃんに、「街の中心に行くにはこの先にバス乗り場があるからそこからバスに乗れ」と教えてもらい、行った先にはちょっとしたバスターミナルがあり、そこからはトロリーバスが走っていました。
きっとこのバスが中心に行くのだろうと見当はつきましたが、まだ現地通貨を持っていなかったのでバスに乗るわけにはいきません。
どのくらいの距離があるかも分からないままとにかく歩いてみました。
いつまでたっても着かないので、途中ヒッチハイクもしてようやく街外れまで着いたのですが、そこが郊外団地となっていました。
まだ戦争の跡が残っていて、上の階の壁が崩れたままの団地もありました。
しかしさすがの戦争もこの大きな建物の局部は崩せても建物そのものを崩すことはできず、したがって衝撃としては大地震の方が大きいのではないか、などと考えていたのですが。
ひょっと次に現れた団地がそれまでのと違って上半分がぐしゃぐしゃに崩れているのを見て、自分の認識が大きく間違えていることに気づかされました。
しかしもっと驚いたのは、そんな団地でも下半分のまともな部分には人がちゃんと住んでいて、日常の生活を送っているということでした。
もちろん傍から見た勝手な印象でしかありません。
そこに暮らす人々がいかに辛く大変な人生を経験してきたのか、そして今現在もしているのか、旅をしているだけでは完全に知ることはできません。
それでもこの状況を生み出した戦争の悲惨さと、その中でも生きている人間の強さみたいのを感じ、妙に胸が熱くなったのを今でも鮮明に覚えています。
4、 田辺の一冊
田辺が月に一冊本を紹介します。みなさんが知らない分野を知るきっかけになればと。
今回は 自分が大学生の時に読んで衝撃をうけた文章を紹介します。
1947年に発表された、福田恆存(ふくだつねあり)『一匹と九十九匹と』です。
福田は聖書の見失った羊のたとえ話
「なんじらのうちたれか百匹の羊をもたんに、
もしその一匹を失はば、九十九匹を野におき、
往きて失せたるものを見いだすまではたづねざらんや。(ルカ傳 第十五章)」
を独自に解釈し、政治と文学の区別を説きます。
政治の意図は「九十九人の正しきもの」のうえにあるとしたうえで、
「しかし、善き政治であれ悪しき政治であれ、それが政治である以上、
そこには必ず失せたる一匹が残存する。
文学者たるものはおのれ自身のうちにこの一匹の失意と疑惑と苦痛と迷ひとを体感してゐなれけばならない。」と。
つまり、(以下、田辺の解釈です)
世の中には社会的に解決しなければならないいろいろな課題があります。
政治の問題、経済問題、環境問題、エネルギー問題など。
もちろんそれらは解決しなければなりませんが、それだけで人は救われるのか。
例えば、誰にでも自分だけの悩みはあります。
人を亡くした悲しみや、人間関係や、自分のコンプレックスなど…
これらは社会が解決できない個人の悩みです。
どんな法律をつくっても、科学で生活がどんなに便利になっても、
どんな平和な社会になっても解決するものではないでしょう。
この個人の部分を扱うのが文学だと言っています。
誰かの言葉によって気持ちが楽になったり、
小説に共感し感動して自分の悩みを忘れることがあるでしょう。
また、たとえ苦しいことがあっても、なにか感動する経験があれば価値ある人生だといえることもあるでしょう。
人のこころにどこまで迫れるかが、文学の価値を決めるといえます。
もとの文章はもっといろいろな内容を含んでおり、
自分がうけた衝撃をうまく言葉にはできないのですが、
高校までほとんど文学を読んでいなかった自分が、
文学に関心が向かうきっかけの一つがこの文章でした。
(ちなみに2021年の慶應大の小論文でこの文章がでてました。)
福田恆存の本は文庫本でいろいろ出ていますので、ぜひ手にとってみてください。
(個人的には『私の國語教室』(文春文庫)は読んでほしい。面白くはないですが。)